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伶人町遺跡

伶人町遺跡:伶人町遺跡では、四天王寺の領域(寺域)を知る重要な手がかりになる平安時代の建物跡や、ハマグリなどの貝殻を大量に捨てた室町時代の土坑が発見されています。

平安時代の建物跡多数 四天王寺に関連か  2005年7月29日 朝日新聞大阪

私立大阪星光学院(天王寺区伶人町1丁目)の校舎建て替えに伴う伶人(れいじん)町遺跡の発掘調査で、同学院に隣接する四天王寺に関係する平安時代の掘立(ほったて)柱の建物跡が多数見つかったと、西近畿文化財調査研究所(兵庫県社町)が13日発表した。同寺周辺で平安時代の建物群が見つかるのは初めてといい、同研究所の村尾政人代表は「時代とともに変遷した四天王寺の領域(寺域)を知る重要な手がかりになる」と話している。同学院は飛鳥時代の593年に創設された四天王寺から西へ約200メートルにある。調査した校門正面の636平方メートルの敷地で、平安時代前期(9世紀)の地層から、柱を立てるための円形や方形の穴が計150見つかり、少なくとも15棟の建物があったことがわかった。一辺が90センチある大型の柱穴もあり、一番大きな建物は縦10・5メートル、横4・2メートルだった。
 建物の規模が大きいうえ、四天王寺に対して一定の方向を向いている造りから、同寺に関係する建物と考えられる。伶人(楽人)という地名から、寺の舞楽団の住居跡の可能性もあるという。
 創建時の寺域は現在とほぼ同じと分かっており、今回の発掘で、平安時代には少なくとも同学院の敷地まで寺域広がっていたことが判明した。
 調査では鎌倉から江戸期にかけての遺構も出てきた。この時代は門前町として栄えていたとみられ、商人の存在を示す大量の貝の捨て場や、多数の井戸が見つかった。寺域を示す堀もあった。
 ※現地説明会は16日の午後1時と同3時から。地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽ケ丘駅下車。小雨決行。

大阪・四天王寺そばに平安期建物跡 (2005年07月14日  読売新聞)

楽人の集合住居か 天王寺近くで見つかった掘立柱建物群の遺構(13日、大阪市天王寺区の大阪星光学院で)日本最古の官寺、四天王寺(大阪市天王寺区)の北西約100メートルの学校敷地内で、平安前期の建物群の遺構が見つかったと、民間の調査団体「西近畿文化財調査研究所」(村尾政人代表)が13日、発表した。同寺で舞楽を演じた「伶人(楽人)」の住居だった可能性があり、同寺の変遷を示す貴重な史料になりそうだ。大阪星光学院の校舎建て替えに伴い、同研究所が今年3月から敷地950平方メートルを調査。平安前期の地層から、「掘立柱建物」が15棟以上あったことを示す柱穴約150個を見つけた。50センチ四方の柱穴が等間隔に並ぶ、間口4メートル・奥行き10メートルの建物跡があったほか、90センチ四方の柱穴も出土しており、さらに大きな建物があった可能性もある。伶人は、朝廷の公式行事の際などに舞楽を披露したとされ、徒然草では「天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」とうたわれた。現場周辺には「伶人町」という地名が残っており、同研究所は「笙(しょう)や篳篥(ひちりき)などの楽器は見つからなかったが、伶人の集合住宅だった可能性もある」としている。 白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「寺の中心から離れた場所でも建物が密集していたことがわかり、平安期の寺の繁栄がうかがえる」とし、坪井清足・元興寺文化財研究所所長は「調査が進めば伶人の生活ぶりもわかるのでは」と話している。現地説明会は16日午後1時と同3時の2回、同学院で開かれる。問い合わせは村尾代表(090・3946・4591)へ。

伶人町遺跡現地説明会

時  期: 平成17年7月16日(土)午後1時、午後3時

場  所: 大阪市天王寺区伶人町1-6大阪星光学院校門前「伶人町遺跡」
(駐車場はありません) 発掘調査: 西近畿文化財調査研究所

照 会 先: 学校法人 大阪星光学院TEL 06-6771-0737

現地説明会公開サイト資料:http://www.keyton-co.jp/gensetu/050716reijin/index.htm



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パソコン | 【2005-07-31(Sun) 23:00:55】
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極楽寺ヒビキ遺跡/奈良

・極楽寺ヒビキ遺跡 記者発表資料(2005年7月13日)http://www.kashikoken.jp/from-site/2005/hibiki-2/hibiki-2.html

・御所市極楽寺ヒビキ遺跡の調査 現地説明会資料資料(2005年2月26日)http://www.kashikoken.jp/from-site/2004/hibiki/hibiki.html

 古代豪族・葛城氏の中枢施設とみられる奈良県御所市の極楽寺ヒビキ遺跡で発掘された古墳時代最大級の大型建物跡(5世紀前半)が、近くの古墳から出土した家形埴輪(はにわ)とそっくりな構造だったことが分かり、奈良県立橿原考古学研究所が15日、発表した。平べったい板状の柱を使った特殊なつくりで、柱の配置は完全に一致。埴輪の柱には呪術(じゅじゅつ)的な意味を持つ直弧文が刻まれており、実際の建物にも同様の紋様が描かれていた可能性が出てきた。このため研究者からは、建物は単なる居住空間や政治施設ではなく、祭祀(さいし)センターなど特別な性格を持つ施設だったという意見が出ており、今後議論を呼びそうだ。

(共同通信) - 7月15日18時3分更新


遺跡・文化財 | 【2005-07-31(Sun) 16:19:54】
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野路小野山製鉄遺跡:炉跡、新たに4基出土 大規模な生産裏付け-草津/滋賀

野路小野山製鉄遺跡現地説明会案内

4基の製鉄炉跡など、新たに発掘 草津・野路小野山製鉄遺跡
noji
新たに4基の製鉄炉跡が見つかった発掘現場(草津市野路町)

 奈良時代(8世紀)の大規模な官営製鉄所跡として国史跡に指定されている滋賀県草津市野路町の「野路小野山製鉄遺跡」で、新たに4基の製鉄炉跡や鉄鉱石などが見つかり、草津市教委が27日、発表した。 遺跡の範囲が広がるとともに、これまでに見つかった10基に加え、今回の炉跡の分布状況から、未調査地も含め20基を超す製鉄炉が同時期に操業していたとみられ、「国内でも例のない規模で、当時の律令(りつりょう)国家が関与した官営工房の実態が一層明らかになった」としている。 遺跡の範囲確認のため、市教委は5月から、遺跡北側の私有地約1042平方メートルを発掘調査していた。 4基の製鉄炉跡は、これまでの調査で見つかったのと同じ「長方形箱形炉」と呼ばれるタイプで、炉を組んだ「炉床部」(長さ約2メートル、幅約1・2メートル)、製造した鉄を炉から取り出す「排滓坑(はいさいこう)」(直径最大2・6メートル)などからなる。  それぞれの炉から製鉄時に生じたごみを捨てる溝が、1つに合流していることなどから、極めて計画性の高い操業が行われていたことがうかがえる、という。また、出土した鉄鉱石は良質で、質がそろっており、市教委は「官営製鉄所だからこそ、鉄鉱石を選別できた」とみている。 製鉄所の操業時期は、政治の実権を握り、後に反乱を起こして敗死した藤原仲麻呂(恵美押勝)が近江国司を務めていた時期と重なることから、市教委は「近江の鉄を支配できたことが、仲麻呂が権勢を誇った理由ともいえるのでは」と推測している。 現地説明会は30日午後1時半から行われる。Kyoto Shimbun News 2005年7月27日(水)

野路小野山製鉄遺跡:炉跡、新たに4基出土 大規模な生産裏付け--草津 /滋賀

 ◇30日に現地説明会
 奈良時代(8世紀中ごろ)の畿内最大級の官営製鉄所跡が出土している草津市野路町の野路小野山製鉄遺跡を調査している同市教委は27日、新たに4基のたたら製鉄炉跡が出土したと発表した。大きさと向きがそろっており、市教委では当時の太政大臣・近江国司だった藤原仲麻呂(恵美押勝)の影響下で、紫香楽宮(甲賀市)や保良宮(大津市)などの造営に、大規模な鉄の生産が行われていたことを裏付ける史料としている。
 周辺遺跡と共に国史跡「瀬田丘陵生産遺跡群」に指定され、これまで10基の炉跡、木炭窯、管理用建物跡などが出土。今回は史跡区域の北側を調査し、「長方形箱形炉」と呼ばれる4基分の長さ約1・5~2メートル、幅約1・2~1・6メートルの炉床部と製鉄時に出る鉄のかすを流す排滓(さい)溝などが見つかった。
 市教委では、未発掘分を含め20基前後の製鉄炉がほぼ同時期に稼働していた可能性が高く、「国内にも例のない計画的な大規模官営製鉄所だったのでは」と見ている。滋賀大教育学部の小笠原好彦教授は「特に保良宮の造営に使う鉄が大量生産された可能性が高く、官営工房にふさわしい性格の遺跡」としている。
 30日午後1時半から現地説明会を開く(雨天決行)。問い合わせは市教委文化財保護課(077・561・2429)。7月28日朝刊 (毎日新聞) - 7月28日17時1分更



遺跡・文化財 | 【2005-07-31(Sun) 09:38:23】
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諸畑遺跡 八木町 /京都

諸畑遺跡の周辺遺跡概要は、八木町報告書参照

諸畑遺跡第4次調査現地説明会の案内は京都府埋蔵文化財調査研究センター

諸畑遺跡第3次調査の概要http://www.kyotofu-maibun.or.jp/gensetu/04-08morohata.pdf

古墳前期 石組みの竈 -八木・諸畑遺跡 府内最古 当時最先端の施設

京都府埋蔵文化財調査研究センターは27日、八木町諸畑の諸畑遺跡で古墳時代前期(5世紀前半)のものとみられる石組みの竈(かまど)などが見つかったと発表した。石組みの竈としては府内最古といい、同センターは「当時、最先端の調理施設を持っていたことがうかがえる貴重な資料」としている。  府南丹土地改良事務所の整備事業に伴い、5月から約750平方メートルを調査していた。  同遺跡からは、弥生時代後期(1世紀ごろ)や古墳時代前期-中期(5世紀)の竪穴住居跡(約5メートル四方-約6・5メートル四方)の計9基を確認したほか、古墳時代前期の住居跡から石組みの竈や須恵器椀(わん)が見つかった。  これまで府内で見つかった竈は、久御山町佐山遺跡で出土した粘土製の竈が最古とされたが、石板などを使った石組みの竈では今回が最古という。  竈は、約60センチ四方で深さ約20センチ。同センターは、朝鮮半島から伝播した技術で焼いたとされる須恵器椀(直径約10センチ、高さ約6センチ)が同時に出土していることから「石組みの竈は朝鮮半島に多く、渡来人の影響を考える上で貴重な手掛かりになる」としている。 morohata

 現地説明会は30日午前11時から。問い合わせは現地事務所TEL090(3997)3776。 Kyoto Shimbun News 2005年7月28日(木)



遺跡・文化財 | 【2005-07-31(Sun) 09:25:16】
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package mailer

07_pmailer  新製品 package mailer  すげっ!

これは、ベストバイです。自宅に居ながらにして、離れた相手に、荷物を送ることが可能! 装置も、どんなインテリアにもマッチする斬新なデザイン。

紹介ビデオhttp://download3.daemlich.net/no_direct_linking48/packagemailer.wmv



パソコン・インターネット | 【2005-07-10(Sun) 22:32:19】
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Scrolling LED Belt Buckle

Scrolling LED Belt Buckle だって。LE Dランプが点灯し、6つのメッセージが流せるらしい。アルファベットだけど。$29.99って微妙な値段。あと、送料$6.49。

漢字バージョン欲しい。

sc1



おすすめサイト | 【2005-07-10(Sun) 22:24:34】
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タイフードフェスティバル2005京都

ele 京都の新風館でタイフードフェスティバルが開催されました。

9日の夜、19時過ぎに行きましたが、あいにくの天気で、客足はそれほどでもありませんでしたが、十数店舗が出店してました。タイの香りが新風館に漂ってました。

ちなみに、領事館ナンバーの車が、御池通の西行きに路駐してましたが....マイペンライ、なのでしょうか?。

日時:2005年7月9日(土)- 10日(日)11:00 - 21:00 時

在京タイ王国大使館

tahifoodfest



Thai | 【2005-07-10(Sun) 21:52:42】
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平安京・長岡京

平安京・長岡京の条坊復原図の試作です。

制作協力M&Nさん。低解像度用

oldcapital1d 



遺跡・文化財 | 【2005-07-07(Thu) 23:24:57】
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ボートハウス

 03/12/31-04/01/02  アンコールワットに行きたかったが、飛行機がこんな時期なもので取れなくて急きょ、スコータイに変更し訪問。スコータイ周辺の遺跡巡りを2003/12/31と2004/1/1におこなった。事前に頼んでおいたガイドは英語の堪能な、Mさん。時間がなかったので非常に効率的に回ることができた。 ピサヌロークへは、バンコクから飛行機で約1時間ほど。着いたときは、早朝でどこか田舎の鉄道の駅に来たような雰囲気でした。thai2004-465

 ←これは、バンコクに戻るときの空港の写真です。現在では新ターミナルができたとか。ターミナルから飛行機までは徒歩です。

 到着の午後、半日のピッサヌローク市内観光と翌日、スコータイ周辺の遺跡巡りをしました。泊まったホテル:TheGrand Riversidehttp://www.tgrhotel.com/inside.html

ピッサヌローク県(Phitsanulok)ナーン川に浮かぶ家屋です。以前は、川をふさぐほどの数があったそうですがいまではごく僅かとなったようです。

Th-mapthai2004-452

thai2004-453

                                       

                           

 ピッサヌロークとはピッサヌ神(ヴィシュヌ)のローク(世界)と言う意味である。これはある言い伝えが元になっていると言われる。ある時チエンセーンの王はサモー山にブッダが来ている(史実上は来ていない)と聞いて、縁起なことだと考えそこへ都市(ムアン)を建設することにした。都市の建設の命を承った使者は、癸丑の月が3回目に満ちる最初の日の木曜日の朝にサモー山に到着した。ここでは聞いたとおりブッダが来ていたが、彼の弟子が2人死去していた。そこで、都市を建設すると時を同じく、彼を弔う祠を建てたという。さて、2人の使者は建設が終わると帰途に就いた。2人がチエンセーンに着いたのは最初の月が満ちる6日目朝日曜日のことだった。そこでチエンセーンの王は新都に行きブラフマーンに新都の名をどのようにすればよいかと問うた。するとブラフマーンは「ピッサヌ神がいまだ見ているうちに陛下が到着したのでピサヌロークとすればよい」と行ったそこでピッサヌロークと言う名前になったということである。 以上はあくまでおとぎ話に過ぎないが、実際にピッサヌロークはスコータイ王朝時代から主要都市として発達していた。またボーロマトライローカナート王の治世に一時アユタヤー王国の首都であり、タイ三大王の一人ナレースワン大王の故郷でもあった。



Thai | 【2005-07-04(Mon) 00:49:17】
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Footpath 小径

 平安時代の小径とは,一町(40丈×40丈)の中を区画する小道のことで,延喜式によると道幅が約4.5mとされる。

Hatch Beauchamp村で見かけたFootpathもまさにこの規模に近いものでした。DSC00383 この道の手前に,教会があってこの先が住宅地となっています。

04/07/17撮影

Hatch Beauchamp, Taunton, Somerset UK

Footpath

DSC00365

関連リンク ちなみに下記のサイトは地図サイトとしてはかなり有用です。旅行前に一度。地理学のもっとも先端と言われるイギリスらしいサイト。

  • Multimapというイギリスのサイトhttp://www.multimap.com/は,すばらしい地図専門サイトです。イギリスだけでなくヨーロッパを広くカバーしています。
  • Map24というサイトはhttp://www.uk.map24.com/,ルート検索機能付きです。経路情報,路程時間など,詳しく検索できます。



日記&メモ | 【2005-07-02(Sat) 01:53:55】
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Hatch Beauchamp, Taunton, Somerset イギリス

DSC00387  04/07/17

友人の結婚式で行ったとある村での教会,創建は12世紀頃で,19世紀になって改修が行われたとのこと。いずれにせよ古く,ノルマン様式を残すとのことイギリスの建築史はあまり詳しくないのですが,...。DSC00417

map2

HATCH BEAUCHAMP CHURCH

THE CHURCH as it stands today is mainly late mcdieval with some 19th century additions in matching style. It is built for the most part of blue has stone. The Patent Rolls of 1206 establish that an earlier church existed at the close of the I2th century There is no record of the date of this earlier church but it was certainly standing on the same site during the Norman period.

THE AGE OF THE PRESENT CHURCH

The tower, the nave and the north aisle are late I5th/early 16th century. The chancel is earlier, but many alterations have been made to it through the ages. The chancel arch is 19th century.

19th CENTURY ADDITIONS AND RESTORATIONS

(I) The north aisle of the chancel is early 19th century. The Faculty for erecting this "Private Pew" by H. P. Collins Esq. is dated July 6th 1825, and this extension to the church must have been carried out very soon thereafter (see page 10).
(2) The south aisle and the transept-like vestrty were added in 1834. A board will be found in the vestry describing these enlargements to the church.
(3) 1867 Restorations. From a contemporary account quoted in Edward Jeboult's "West Somerset" (published 1873) "The church of Hatch Beauchamp as it stood a year or two ago was in a very ruinous condition. It was built of Curry Mallet stone which in many parts was literally crumbling away." According to Jeboult the following restoration work was done: The coat of rough-cast which covered the whole of the walls was taken off, all repairs were effected with "Langport stone", and the whole carefully pointed. The buttresses of the tower were removed and rebuilt, and the parapets and pinnacles taken down and refixed. The old chancel arch with its zig-zag ornamentation indicating a Norman date was replaced by the present chancel arch which was erected to the east of the old arch. This has resulted in the nave being extended slightly eastwards at the expense of the chancel. To effect this work the small pointed arch of the arcade of the south aisle, and the small eastern arch of the north arcade had to be inserted. Finally a1 singer's gallery in the lower part of the tower was removed, thus opening the tower and the western window to the church. These restorations were done under the direction of George Gilbert Scott, and they cost £1,500. Towards this the parish paid by rate £200, and the remainder was by subscription, W. H. P. Gore Langton Esq. bearing the larger share.
(Note: In the old church guide the north and south aisles are both dated as 1530. The south aisle was definitely added in 1834 because inter a/ia the 1832 Buckler drawing shows no south aisle whilst the 1842 drawing shows both the south aisle and the transept-like vestry. The old guide also states that the north aisle of the chancel was added in 1867 when the correct date is as stated above.)



日記&メモ | 【2005-07-01(Fri) 00:24:10】
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