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古墳時代前期の前方後方墳見つかる…大阪・羽曳野

 大阪府羽曳野市東阪田で古墳時代前期(4世紀中ごろ~後半)の前方後方墳が見つかり、未盗掘の埋葬施設から三角縁神獣鏡1面をはじめ多数の副葬品が出土したと、同市教委が31日発表した。旧地名から「庭鳥塚古墳」と命名された。

現場の写真(記事より)

古市古墳群の紹介(藤井寺市教育委員会)

●大阪府羽曳野市東阪田の周辺地図



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遺跡・文化財 | 【2005-08-31(Wed) 19:11:10】
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膨大な文化財 対策に本腰 京都市、築400年の二条城

 築城から400年がたち、老朽化の進んでいる世界遺産・二条城(京都市中京区) の長期的な修復の在り方を検討する元離宮二条城保存整備懇談会の初会合が30日、中京区役所で開かれる。傍聴者は、10名とありますが、これってほとんど密室会議?



“膨大な文化財 対策に本腰 京都市、築400年の二条城”の続きを読む>>
遺跡・文化財 | 【2005-08-31(Wed) 00:29:01】
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男前豆腐店 三和豆友食品

Two Is One No!s氏が愛してやまない、男前豆腐をジャスコで発見。

風に吹かれて豆腐屋ジョニー(380g)300円買いました。まじかなり高い。麻婆豆腐にはできないか。

DSC00659 この他にも、いろいろラインナップがある模様。

詳しくは、男前豆腐店HPにて。こんな、HP作ってるから高いのか?

製造元の三和豆友食品は年商50億だって。

この男前豆腐店のHPは必見です。テーマソングまであります。



“男前豆腐店 三和豆友食品”の続きを読む>>
おすすめサイト | 【2005-08-29(Mon) 21:50:08】
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見上げてごらん

ちょっと、こんな事してたらbolgの趣旨が変わってしまいそうですが。

scc ムービーはこちら

坂本九の「見上げてごらん」のバックミュージックが最高!

ほとんど、ゴールなのに外してるシーンのオンパレード。



Viral CM | 【2005-08-29(Mon) 19:52:16】
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ASIAN NUMANUMA

笑けた。3人の動きに注目です。楽しそうに、Numa Numa Danceしてます。

一瞬、小錦か、ザワニシ君かと思った。(内輪ネタ)asianumanuma

ムービーはここ

曲名:Dragostea Din Tei   「恋のマイアヒ」
アーティスト:O-ZONE



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Viral CM | 【2005-08-29(Mon) 19:23:04】
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バイラルCM NIKE?

nike_115 ●セバスチアンがナイキの助けを得て、若いフランス娘のハートを勝ち取ろうとするのだが...........。

NIKE Viral CM←ムービーはここ

こちらのサイトよりhttp://www.megastar.co.uk/



Viral CM | 【2005-08-29(Mon) 18:53:29】
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バイラル(VIRAL)CM&バイラルマーケティング

バイラル(VIRAL)とは、ウイルス性のという意味。

専門の制作企業のサイト:the viral factory - the viral marketing experts

など。

バイラルマーケティングについてはこちらのサイトに記事が。あとこれも。

●THE VIRAL CHART - VIRAL ADVERTISING 有名どころ

http://www.viralchart.com/



“バイラル(VIRAL)CM&バイラルマーケティング”の続きを読む>>
Viral CM | 【2005-08-28(Sun) 23:49:25】
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飛鳥藤原第136次(藤原宮朝堂院東第六堂)」発掘調査の現地説明会

資料PDF

「飛鳥藤原第136次(藤原宮朝堂院東第六堂)」発掘調査の現地説明会を下記のとおり開催いたします。

日 時

平成 17年 8月27日(土)
午後1時30分から   ※小雨決行
 
場 所
奈良県橿原市高殿町
 「飛鳥藤原第136次(藤原宮朝堂院東第六堂)」発掘調査現場 *(案内図参照)
 
交 通
近鉄大阪線「耳成」駅下車南へ徒歩25分
 
報告者
飛鳥藤原宮跡発掘調査部
文部科学技官   市  大 樹
 
* 駐車場はありませんので、車でのご来場はご遠慮下さい。なお、現地説明会場へは地図の矢印の道順でお越し下さるようお願いします。 現場周辺の畦道や水田を通ることはご遠慮下さい。

奈良・藤原宮跡    (2005年08月26日  読売新聞)
朝堂院建物跡が出土 東西49メートル、南北11メートル
 藤原京(694~710年)の宮殿があった奈良県橿原市高殿町の藤原宮跡で、儀式や政務を行う朝堂院の建物のうち、国家の予算編成や徴税、戸籍編さんを行う民部省の役人が着座した「東第六堂」の建物跡が出土し、奈良文化財研究所が25日発表した。巨大な建物跡(南北11・2メートル、東西49・1メートル)がまるごと見つかったうえ、正面に天皇が政務を執った大極殿や耳成山をのぞむロケーション。同研究所は「大和三山に囲まれた当時の朝廷の姿をしのぶ貴重な資料」としている。
 朝堂院は大極殿南側にあり、親王や太政大臣、役人が着座する12棟が東西対称に並ぶ建物群。役人は各官庁から同院に集まり、朝の会議「朝政」を開いた。
 「東第六堂」は最も南側にある東西に長い建物で、確認された朝堂院遺構としては4棟目。現在の総務省の一部と財務省を兼ねる民部省の主計寮、主税寮の役人が着座したとされる。
 柱を立てる礎石は平城京遷都に伴い、大半がなくなっていたが、1辺約1メートルの2基が元の位置と離れた場所で出土。礎石を置く直径1・5~2メートルの穴には、礎石を安定させるために人頭大の石が敷き詰められていた。構造は南北に庇(ひさし)がある切り妻造りで、役人は板張りの床にむしろを敷いて座っていたとみられる。基壇の外縁は木枠で囲んでいたらしい。
 建物の周囲はれき敷きの空間が広がり、格調高い院内の様子がうかがえる。
 現地説明会は27日午後1時30分から。



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遺跡・文化財 | 【2005-08-26(Fri) 22:05:02】
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平城京は大きかった? 九条大路の南で区画道路跡が出土

平城京は大きかった? 九条大路の南で区画道路跡が出土
朝日新聞2005年08月26日19時43分

 東西と南北の道路(破線)の交差点付近(右が北方向)=26日午後、奈良県大和郡山市で南北と東西に走る道路跡(破線)が見つかった発掘現場(上が北方向)。「調査地の概要」図の中央の十字路にあたる=26日午後、奈良県大和郡山市で奈良時代の首都、平城京(710~784年)跡の南側で、京の内部と同様の区画道路跡(8世紀初め)が見つかった。26日、奈良県大和郡山市教委と元興寺文化財研究所が発表した。京の外で区画道路跡が出土したのは初めて。九条大路が南端とされてきた南北約4.8キロの平城京は、南側に400メートル以上広く、十条大路が存在した可能性も高いという。京の範囲は明治時代の研究で確定したが、1世紀ぶりに見直しを迫られそうだ。平城京は奈良市と大和郡山市にまたがり、今回は京の南端を東西に走る九条大路の南側(大和郡山市下三橋町)の約1万2千平方メートルを調査した。見つかったのは、幅が約22.7メートル、約8.7メートル、約7メートルの3種類の道路跡計4カ所で、総延長は約230メートル。道幅はそれぞれ京内の道路とほぼ同じで、南北道路の出土位置は京内道路の延長線上にあった。数メートル四方の小さな建物数棟の跡も確認された。今回の調査で、道路は少なくとも九条大路の南側約400メートルまで広がっていたことを確認。京内には約530メートルおきに東西を走る大路があり、さらに約130メートル南に十条大路があった可能性が高いとみて調査を続ける。見つかった道路跡と建物跡は、出土した土器の年代などから、平城京遷都の20年後の730年ごろまでには使われなくなり、土砂などで埋められ整地されていたらしい。その後は水田などになり、今回の発見まで地中に埋もれていた。「宮殿から遠すぎて不要になったのでは」などの理由が考えられている。 また、九条大路の中央にあった羅城門の東約500メートルで、8世紀後半の羅城(城壁)跡が初めて約10メートル分見つかった。これまで地形などから、羅城門の両脇に延べ130メートル程度の城壁があったと推定されていたが、それより長い延べ1キロ以上の城壁があった可能性が高くなった。国内では都城を取り囲む城壁はないとされているが、平城京では南側には少なくとも城壁があったとみられる。現地説明会は9月3日午前10時から午後4時まで。小雨決行。JR、近鉄の郡山駅からシャトルバスが運行される。



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遺跡・文化財 | 【2005-08-26(Fri) 21:53:36】
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長岡京市歴史フォーラム

発掘調査テーマに座談会など長岡京で「歴史フォーラム」

Kyoto Shimbun News 2005年8月6日(土)

長岡京市教委と同市埋蔵文化財センターは6日、京都府長岡京市神足2丁目のバンビオ1番館で「長岡京市歴史フォーラム」を開いた。地元の歴史ファンら約60人が訪れ、弥生-長岡京-江戸の3時期について、同センターの調査員3人からJR長岡京駅の西口再開発に伴う発掘調査(1998-2004年度)の成果を聞いた。また、市街地における発掘調査の難しさなどをテーマに、座談会も行われた。

 長岡京期を担当した木村泰彦調査員は、長岡京右京六条一坊で出土した建物の遺構群を報告。「四町四方が内溝で囲まれている。その東側に34棟が東西方向に整然と並んでおり、平城京や平安京にも、今のところ類例のない特異な遺構群です」と説明した。

 恭仁宮跡調査専門委員会委員長の中尾芳治さんも「長岡京の造営に携わった人びとが生活していた可能性もある。西側は、資材置き場などに使われていたのではないか」と推測した。

 中尾さんと向日市埋蔵文化財センター事務局長の國下多美樹さん、長岡京市文化財保護審議会会長の井ヶ田良治さんの3人による座談会も行われ、市街地における発掘調査の難しさや課題が話し合われた。國下さんは「地域住民の理解を得るためにも、丁寧に分かりやすく、調査成果を公開することが重要だ」と語り、井ヶ田さんも「歴史資料館のような施設を長岡京市にも作ってもらえたら」と話していた。



遺跡・文化財 | 【2005-08-26(Fri) 21:46:27】
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M氏のご所望のもの

ご依頼のものです。

ほっとけない 世界のまずしさ http://www.hottokenai.jp/white/300yen.pdf



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おすすめサイト | 【2005-08-25(Thu) 21:09:45】
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中世考古学の総合的研究

近頃は、こんなサイトも

中世考古学の総合的研究 研究代表者 前川要 中央大学教授 研究室HP

1.1 研究目的の概要及び対象となる領域の特性
 本研究では、従来個別分散化してきた中世考古学の総合化・体系化を目指して、周辺諸科学と「学融合」を行うことにより新領域「中世総合資料学」を樹立することを目的とする。研究組織としては、後述する13の具体的研究目的を実現可能とするために、4つの研究部門、36の計画研究そして約15の公募研究を企画した。これほどの総合的なものは今までに実施されておらず、全く独創的な試みである。
 なお、本領域研究は、公募要領1(2)「対象となる領域の特性」に示された1~5のうち、4「その領域の研究の発展が他の研究領域の研究の発展に大きな波及効果をもたらす等、学術研究における先導的又は基盤的意義を有する研究領域」及び5「社会的諸課題の解決に密接な関連を有しており、これらの解決を図るため、その研究成果に対する社会的要請の高い研究領域」に該当する。



遺跡・文化財 | 【2005-08-17(Wed) 23:28:56】
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大月前山遺跡

大月前山遺跡:中世に栄えた平泉寺末坊跡の全容、明らかに-上志比村大月 /福井

 ◇字名と伝承、残るだけだった--建物跡、初めて確認
 福井県上志比村大月の「大月前山遺跡」で、中世に栄えた平泉寺(同県勝山市)の末坊跡の全容が、同県教育庁埋蔵文化財調査センターの調査でほぼ明らかになった。同寺の末坊は同県北部に数多く伝わるが、建物跡が特定されたのは初めて。
 平泉寺は、鎌倉~室町時代には6000坊を有したと伝わるが、1574(天正2)年の一向一揆との戦火で滅亡した。
 各地にあったとされる末坊は現存の史料に記録がなく、大月前山遺跡の推定範囲も「寺屋敷」の字名と地域住民に末坊伝承が残るだけ。中部縦貫自動車道の建設計画に伴う03年からの発掘で、約1万2500平方メートルの範囲から礎石のある本堂と隣接する建物などが当時の石垣などと共に出土した。焼け跡もあり、本堂の入り口が北東の白山に向けられている。
 遺跡は九頭竜川左岸の丘陵地にある。斜面に沿って降りた場所は当時の港を示す地名が残る。同センターは「当時の寺は物資の中継地の役目も担っていたのではないか。平泉寺勢力の全容を知る上での貴重な証拠となる」と話す。
8月16日朝刊 (毎日新聞) - 8月16日16時43分更新



遺跡・文化財 | 【2005-08-17(Wed) 23:21:00】
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近江国庁の役所か 大津「青江遺跡」 掘っ立て柱建物跡出土

最近は、現地説明会にもなかなか行けません。

近江国庁の役所か
大津「青江遺跡」 掘っ立て柱建物跡出土 

Kyoto Shimbun News 2005年8月17日(水)

大津市教委は17日、近江国庁の関連施設跡とみられる史跡「青江遺跡」(同市神領4丁目)から、3棟分の掘っ立て柱建物跡が見つかった、と発表した。うち一つは、国庁の中心施設「政庁」の東脇殿跡に次ぐ規模で、国庁で使われた飛雲文の模様が入った軒丸瓦も発見されたことから、市教委は「近江国庁と深いかかわりを持つ官衙(かんが)(役所)ではないか」としている。

 近江国庁は8世紀から10世紀まで、近江国を統治した。青江遺跡は史跡「近江国庁跡」の南約500メートルにあり、1999年度の調査で国司級の役人の住居とみられる建物跡が見つかっている。

 今回は、青江遺跡の東南部の約1万平方メートルを発掘した。建物跡は近接して建てられ、うち2棟は重複していた。最大の建物跡は南北27メートル、東西6メートルの長方形で、国庁と同じ方位に建てられ、政庁の東脇殿跡(南北48メートル、東西7メートルと推定)に次ぐ大きさだった。8世紀後半から9世紀初めに作られた土器や瓦の破片も大量に出土していることから、3棟とも、この時期の建造とみられる。

 市教委は「建物の近くで硯(すずり)や水滴も見つかっており、文書行政を担う官衙だったのではないか。これまで官衙は近江国庁周辺でしか見つかっておらず、離れた場所で見つかったのは初めて。国庁と方位が同じであることから計画的に造られたとみられ、官庁街だった近江国府の広がりがわかる」としている。

 現地説明会は20日午前10時半から。

 地方官衙の遺跡に詳しい奈良文化財研究所(奈良市)の山中敏史・遺跡調査技術研究室長の話官衙は政治の実務を担う場所で、国庁から広範囲にブロックをなして散在していた。今回の発見は、近江国の都市計画を知る手掛かりになる。

近江国庁の重要施設か 滋賀、文具や瓦も出土

2005年08月17日水曜日 河北新報社ニュース
奈良時代から平安時代の役所「近江国庁」の関連施設とみられる大津市神領の青江遺跡で大型建物跡が見つかり、同市教育委員会が17日発表した。
 同遺跡は近江国庁跡から南に約500メートル。これまでは役人の居住区とされていたが、周辺から硯(すずり)や水滴などの文具、国庁と同じ模様の瓦が出土したことから、実務的な役所の可能性が高いという。
 同市教委は「規模などからみて重要な部署が置かれていたのでは」とみており、古代の地方行政の実態を探る手掛かりになりそうだ。
 建物跡は3棟分あり、最大で東西約6メートル、南北約27メートル。国庁と方角を合わせ、計画的に配置されていた。市教委によると、国庁と関連施設がこれだけ離れて見つかるのは珍しいとされる。
 滋賀県立大の林博通教授(考古学)は「予想より広い範囲に、国庁関連の建物があったようだ。近江国府にとって、青江遺跡は重要な役割を果たしていた」としている。

青江遺跡:掘立柱建物跡発見 奈良後期―平安初期の近江国庁関連施設--大津 /滋賀

 大津市教委は17日、同市神領4の青江遺跡で、奈良時代後期から平安時代初期にかけての近江国庁関連施設とみられる掘立柱建物跡が見つかったと発表した。市教委によると、国庁関連の建物の遺構としては政庁に次ぐ規模という。
 建物跡は国庁跡の南500メートルにあり、桁(けた)行9間(27メートル)、梁(はり)間2間(6メートル)で南北に延びていた。8~9世紀の遺構とみられ、ふかれていたとみられる瓦に国庁から見つかったものと同じ飛雲文と呼ばれる文様があることから、国庁関係の官衙(が)(公的施設)だったと推測されるという。
 市教委は「同時に出土した土器に、何に使われた建物だったかを示すような文字が残っていないか、詳細に調べたい」と話している。現地説明会は20日午前10時半から。問い合わせは市教委文化財保護課(077・528・2638)。

8月18日朝刊 (毎日新聞) - 8月18日17時0分更新



遺跡・文化財 | 【2005-08-17(Wed) 23:03:04】
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噂 京都市 JR◎条駅

巷の噂 京都市のJR嵯峨野線、雨にも負け、雪にも負け、強風にも負け、よく遅れ、よく駅で待たされる単線の路線ですが、複線化に向け、いろいろ動いておられるようです。そこで、なにやらJR*条駅ができるとかできないとか、嵯峨野線の*条付近は、◎本写真印刷以外、住宅地と中小の工場などが周辺にあるわけで、どこにそんなもん作るのでしょうか?やはり◎本写真印刷か。 JR山陰本線(嵯峨野線)複線化事業の取り組み情報

sijyoueki

JR山陰線複線化などで合同総会 口丹波1市7町の促進協議会

 口丹波1市7町でつくる「山陰本線京都中部複線化促進協議会」「京都縦貫自動車道(丹波-和知間)建設促進協議会」「北陸新幹線口丹波建設促進協議会」の合同総会が8日、八木町氷所の「氷室の郷」で開かれ、本年度の事業計画を決めたほか、各市町の連携を強め、交通網の整備促進に向け、今後とも要望活動を継続することを申し合わせた。
 各市町の首長や議員ら約170人が参加。合併後は10月11日に京丹波町が、来年1月1日に南丹市が発足することから、各協議会規約の一部改正を承認したほか、任期満了に伴う京都縦貫自動車道建設促進協の新会長に堀郁太郎和知町長を選んだ。
 山陰線複線化については、「京都-園部間全区間の2008年度完成と、園部以北の複線化についても積極的な利用促進策と要請活動を行う」などとした事業計画案を可決。京都縦貫道についても、丹波-綾部間などの早期完成を目指す方針を確認し合った 。(京都新聞) - 8月8日20時49分更新



日記&メモ | 【2005-08-12(Fri) 00:01:19】
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遺跡データーベース

奈良文化財研究所 http://www.nabunken.go.jp/

 全国統一より研究重視と、見出しにありますが、統制のとれていないデーターベースで十分な研究資料の検索って本当にできるのでしょうか?っていうか、精度も質もまちまちだから真の意味での統制は、相当難しいんでしょうね。単純に数値化できないところが、考古学の難しさなのでしょうが.......................................。

全国統一より研究重視  朝日新聞企画特集2005年8月11日 

 考古学は比較の学問。遺跡や遺物を他のものと比べて分類し、それをもとに歴史の流れを明らかにする。
 しかし文化庁の統計では、73年に年間約1200件だった全国の発掘調査が30年後の03年には約8千件になり、情報量がどんどん増えていく。この中から、目当ての比較材料を探すのは大変だ。
 そこで、遺跡情報を検索できるデータベースがほしい。奈良文化財研究所がホームページ(http://www.nabunken.jp)で公開している遺跡データベースは、全国最大のものだ。96年11月に19万件だった収録データは、今や33万6500件。全国50万件といわれる遺跡の6割をカバーできるようになった。
 このホームページには、木簡(4万件)、墨書土器(1千件)、軒瓦(7万6千件)、発掘庭園(300件)、薬師寺典籍文書(1100件)などのデータベースもある。ただし、いずれも「目次」で、詳細は発掘調査の報告書などで確認する必要がある。
 電脳時代の昨今、全国の報告書を一つのデータベースにまとめることもできそうだが、そう簡単ではない。例えば、「縄文」を「縄紋」と表記する人がいるように、研究者の考え方によって用語が違うことも多いからだ。奈文研文化財情報研究室の森本晋さんは「遺跡データベースは全国統一を目指していない。それは統制につながり、自由な研究を阻害するおそれがある」と話す。
 それでも、遺跡データベースが充実すれば、いろいろな使い方が出てきそうだ。全地球測位システム(GPS)が付いた携帯電話で現在地周辺の遺跡を探す、というようなことも理論的には不可能ではなくなっている。



遺跡・文化財 | 【2005-08-11(Thu) 23:38:45】
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青森県:赤平(3)遺跡

青森県埋蔵文化財調査センターって段ボールで遺物の管理をしてるのですか?

ちなみに赤平(3)遺跡の現地説明会案内はここ

東北町の赤平(3)遺跡を一般公開 【写真】 2005/08/11 10:39 北海道新聞社

aomori  青森県埋蔵文化財調査センターは七日、東北町の赤平(3)遺跡で現地見学会を開き、十世紀半ばのものとみられる壕(ほり)跡や同時期の竪穴住居跡などを一般公開した。 同遺跡は七戸川南側の丘陵地に位置する主に平安時代の集落跡。東北新幹線建設に伴い、昨年度から二カ年計画で発掘調査が行われ、これまでに竪穴住居跡六十四軒、土坑(どこう)五十一基、壕跡三本、土器類など段ボール箱二十箱分が見つかった。遺構は複数の時期(十-十一世紀)にわたっていることから、「住居群を壕が取り囲む『防御性集落』の変遷を語る重要な遺跡」(同センター)として関心が高まっている。 一般公開には、青森県内各地から約六十人の考古学ファンが参加。同センター職員の説明を受けながら、本年度新たに見つかった十世紀半ばのものとみられる幅約三・五メートル、深さ約一・五メートル、長さ約六十五メートルの逆台形状の壕跡などを見学した。壕跡は一部クランク状になっており、突き出た部分にはやぐらが築かれた可能性が高いとみられ、参加者たちは熱心にメモを取りながら約千年前の動乱に思いをはせていた。

<写真:新たに見つかった10世紀半ばの壕跡を見学する参加者たち> (東奥日報提供)



遺跡・文化財 | 【2005-08-11(Thu) 23:29:51】
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熊野徐福万燈祭(第43回新宮花火大会)

新宮花火大会:和歌山県新宮市場所天気

新宮市公式サイトより転載

秦の始皇帝の命を受け、中国より渡来したといわれる「徐福」。その徐福の遺徳を偲ぶため始められた熊野徐福万燈祭(新宮花火大会)は、今年で43回を数え、下記の日程で開催します。熊野川を舞台に、水上スターマインや長さ約400mのナイアガラなど、約2000発の花火が夏の夜空を鮮やかに彩ります。皆さん、お誘い合わせの上、ご観覧ください。

イベント名: 熊野徐福万燈祭(新宮花火大会)
(くまのじょふくまんとうさい(しんぐうはなびたいかい))
開催日: 2005年8月13日
19:30~21:00、荒天の場合は20日に順延
開催場所: 和歌山県新宮市 熊野川河川敷
主催者: 新宮市観光協会、新宮商工会議所、(財)新宮徐福協会
問い合わせ先: 新宮市商工観光課 0735-23-3333
内容: 2200年ほど前に秦の国から渡来した徐福の遺徳を偲んで開催される供養式典の中で行われる花火大会。熊野川河原にて打ち上げられ、ナイアガラや水上スターマインなど多彩な花火が夏の夜空を彩ります。
備考: 打ち上げ数、約2000発 観客数、約3万人。

【徐福供養式典】
場 所  徐福公園にて
日 時  8月12日(金) 午後2時~午後2時30分
【新宮花火大会】
場 所  熊野川河川敷にて 
日 時  8月13日(土)午後7時30分~午後9時



日記&メモ | 【2005-08-05(Fri) 22:42:15】
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祇園祭

 忘れた頃に、たまたま思い出したので、宵宵宵山(よいよいよいやま」)。人混みが嫌いなもので。祇園祭に行ったことがなかったのですが、たまたま。

烏丸通りから車が消える。初めて見た。ホント。

yoiayama

●烏丸四条下がったところから、京都駅を望む。2005/7/14 18:51撮影

yoiayam2a

●お昼頃撮ったもの四条烏丸交差点南東から西を望む

京都ガイドブック祇園祭によると、今では「八坂神社」の「祇園祭」として知られていますが、明治維新までは「祇園社」の「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」、略して「祇園会(ぎおんえ)」と呼ばれていましたそうです。へぇ~。



パソコン | 【2005-08-05(Fri) 21:58:07】
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グっときた。

 先日、友人の持ってた。PSPに電脳物欲が大きく刺激される。これで、寝ながらブラウジングできるかも。かなりヤバイ。

 ソニー・コンピュータエンタテインメントは7月21日、携帯ゲーム機の「PSP」において、新たにインターネットブラウザが利用できるようにすると発表した。7月27日より無料配布するPSP用のOS「システムソフトウェア バージョン2.00」にブラウザ機能を追加するって。 CNETJAPAN記事

psp

SONYPSPバリューパックPSP-1000K 楽天で買おうか?USJWALKERさんも一緒にどうですか?

 



パソコン・インターネット | 【2005-08-05(Fri) 21:20:20】
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遺物は落とし物

 埋蔵文化財あまり聞き慣れない言葉ですが、埋蔵文化財とは、もともとは『文化財保護法』のなかで用いられたもので、遺跡(いせき)・遺構(いこう)・遺物(いぶつ)をあらわす概念(がいねん)として使用されていた用語です。

と理解していただければよいでしょうか。『文化財保護法』とは,歴史的・文化的・自然的遺産である文化財の保護を目的として制定された法律で、その中には,遺跡の発掘に際しての手続きや、遺跡のある場所での開発に対する処置が定められています。
 たとえば、遺跡が自分の所有地であっても,勝手に発掘をしてはなりませんし,遺跡への対応を全くしないで、土地の開発を行なうことも禁じられています。なお,出土した土器や石器などの遺物については、『遺失物法』の規定に基づき、落とし主の分からない遺失物として扱われ、誰の土地から出たものでも、まずは国が所有することになります。
 
 簡単にいうと、土の中に埋まっている文化財

ちなみに京都市の周知の埋蔵文化財包蔵地内における取り扱いは、京都市埋蔵文化財調査センターでご確認を!

 調査地の警察に発見届

  遺跡の発掘調査で見つかった遺物は誰のもの?

  答えは「わかりません」。だから、落とし物としての手続きが必要です。

  文化財保護法は「所有者が判明しない時は、警察署長に通知する」、遺失物法は「落とし物は所有者に返すか、警察に届ける」と定めている。発掘で見つかったものは、ほとんどが所有者不明だから、警察に届けることになる。

  具体的には、発見した日か発掘調査終了日から7日以内に、調査地の地元警察へ「発見届」を出す。同時に、都道府県教委へ遺物の「保管書」を届ける。大量の遺物を警察に持ち込むのは不可能なので、「発掘した調査機関が保管しています」と届け出るわけだ。

  警察は遺物の鑑査を都道府県教委に依頼し、ここで認められると晴れて文化財となる。政令指定都市や中核市の場合は「保管書」の受け付けや監査を市教委が担当する。

  ちなみに、04年度に奈良県内で出された発見届は284件だった。

  もし、どこかで金印が出土して、「卑弥呼」と名前が書いてあったらどうなるのだろう?

  卑弥呼の家族が「我が家のものです」と名乗り出る可能性はゼロ。落とし物としての手続きが淡々と進むだけです。

(朝日新聞7/3)



遺跡・文化財 | 【2005-08-05(Fri) 20:34:16】
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唐代の獅子陶枕 平安京跡で初出土

遣唐使が持ち帰る? 陶製の獅子の頭が出土 
中京区の平安京跡
 Kyoto Shimbun News 2005年3月8日(火)

 京都市中京区の平安京跡(9世紀初頭で、唐で作られたとみられる陶製の獅子の頭が見つかり、発掘調査した古代学研究所(京都市中京区)が8日発表した。sisi

 同研究所は「これまで日本で出土例のない獣形の陶枕(とうちん)だろう。かなり高貴な人物が使っていたとみられ、遣唐使によってもたらされた可能性もある」(堀内明博助教授)としている。 2003年10-12月に、中京区西ノ京徳大寺町の工場建設に伴い715平方メートルを調査した。貴族の邸宅とみられる掘っ立て柱建物跡2棟や井戸跡(直径1・6メートル)がみつかり、獅子は井戸の中から出土した。 獅子はこぶしほどの大きさで、鉄分の入った釉薬(ゆうやく)で獅子のたてがみや目、まゆ毛、鼻などが茶色で彩られた上に青磁釉が施され、開いた口の中は朱が塗られていた。 同研究所は、釉薬の使い方や土の種類が中国・湖南省の長沙窯(ちょうさよう)の壷や茶碗(ちゃわん)と同じであることや、出土した同窯の獣形枕と形がよく似ていることから陶枕と結論づけた。同窯の獣形枕は中国で5件の出土例があるが、それと比べてリアルな彩色で精巧な出来栄えという。 9世紀初頭の804年には空海や最澄らを乗せた遣唐船が唐に渡っている。838年に最後の遣唐使が送られて以降は、唐の商船が九州などに来航して交易が行われるようになる。

■奈良文化財研究所国際遺跡研究室長・巽淳一郎室長(陶磁器)の話

 大きさ、構造から見て枕の台座の一部と見て間違いない。精巧な作りで、東南アジア、西アジアでも発見例はない。長沙窯では、外国向けの製品を大量生産していたが、今回の獅子頭はそういった輸出用ではなく、唐で直接入手したのではなかろうか。

 ■村井康彦・京都市美術館長(日本古代中世史、文化史)の話

 交易によるものというより、804年の遣唐船で唐に渡った役人が持ち帰ったと考えるべきだろう。嵯峨天皇(在位809-823)の時代は、茶など多くの唐の文物がもたらされた時代。唐風文化が貴族の生活に入り込み、王朝文化の先駆けになったことを示す興味深い発見だ。

貴族の安眠守った?

 京都市中京区の平安京跡から、唐代の陶製枕「陶枕(とうちん)」に使われた獅子の顔の部分(高さ、幅各6センチ、奥行き8センチ)が出土し、財団法人古代学協会が8日、発表した=復元図、同協会提供。9世紀前半の作とみられ、獅子の形の陶枕が出土したのは国内初。たてがみやひげなども精巧に表現されており、協会は「平安貴族の優雅な生活がうかがえる」としている。

 陶枕は「エ」の字形で、獅子の顔は、頭を乗せる台の下部にあったとみられる。鉄などが入った上薬が使われ、長沙窯(中国湖南省)作らしい。獅子を飾った陶枕は、中国でも出土例は少なく、唐代は貴族専用だったといわれる。

 貴族の屋敷跡近くの井戸跡から須恵器などとともに見つかった。陶枕に詳しい脇田宗孝・奈良教育大教授は「遣唐使が日本に運んだとも考えられ、歴史のロマンを感じる」と話している。

(2005年03月09日  読売新聞)
*どのコメントもなぁ。新聞記事のタイトルもなんともはや。京都新聞はまだともかく、読売はどうなんでしょ。


遺跡・文化財 | 【2005-08-05(Fri) 20:10:55】
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パソコン・インターネット | 【2005-08-04(Thu) 20:46:16】
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鳥取藩御殿医の古民家発見、国文化財に匹敵

 浅川滋男教授のblog には,この記事に関する浅川氏の見解が載せられております。新聞記事の誇張表現等々は,困ったものです。ちなみに,担当記者の弁明も記載されていたりして。

 鳥取市倭文に江戸時代中期に建てられた鳥取藩御殿医加藤家の古民家が残っていることが、鳥取環境大学環境デザイン学科の浅川滋男教授(建築史)らの調査で、26日までに分かった。古い民家は庄屋や名主など豪農の住宅という固定観念を破る貴重な発見で、国の有形登録文化財にも匹敵する建物という。

 鳥取市から「鳥取市歴史的建造物調査研究」の委託を受け、2004年度に旧市内の神社、寺院、民家など合わせて730件を調査した中から見つかった。

 加藤家は、鳥取藩政資料の「在方諸事控」や「加藤家文書御改名過去帳」などによると、初代道順が1731(享保16)年に鳥取藩の御目見医師となり、2代目東悦も1776(安永5)年まで藩医を務めた家柄。

 敷地は約1000平方メートルあり、母屋は入り母屋造りの平屋。元は茅葺き(かやぶき)屋根だったが、現在は茅を降ろして鉄板をかぶせてある。道路との境に石垣が残っていて、土塀と門があったことをうかがわす。

 母屋は、鳥取県八頭町の重要文化財・矢部家住宅(17世紀建築)と同じ「広間型五間取り」という大広間の奥に5つの部屋がある構造で、大地主に並ぶ力を持っていたことを示す。

 母屋に建築年代を示す棟札などはないが、1730年代に建てたという家伝や住宅の構造から、浅川教授が18世紀前半に藩医の家として建てたと判断した。所有者は県外在住で、親類が管理している。

 浅川教授は「国の有形登録文化財にも匹敵する住宅。旧市内に貴重な古民家の残っていることが判明した。次は調査範囲を旧町村部まで広げて約2000件を調べたい」と話している。(05/07/27山陰中央新報)



遺跡・文化財 | 【2005-08-04(Thu) 20:17:09】
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山形に平安末期の住居跡 奥州藤原氏と深い関連

山形市成安の上敷免遺跡で平安時代末期の掘っ立て柱建物の住居跡や土坑などが、30日までに県埋蔵文化財センターの発掘調査で見つかった。センターは「年代や、平泉(岩手県)で使われたかわらけ(素焼きの器)と類似した土器の一部が出土したことから、奥州藤原氏と関連が深い」とみている。
 住居跡は7棟を確認。柱穴は直径約50センチ、深さ約50センチ。最大で50平方メートル以上の建物があったとみられ、ひさしを支える柱穴もあった。輸入品の白磁なども出土し、有力者の住居と推測されるという。
 岩手県平泉町世界遺産推進室の八重樫忠郎室長補佐(44)は「かわらけは平泉とほぼ同一。遺跡は最上川の支流近くにあり、藤原氏の支配下で、水上交通によって栄えていたのではないか」と話している。

(共同通信) - 7月30日20時41分更新


遺跡・文化財 | 【2005-08-04(Thu) 20:06:37】
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青野形住居跡を初確認 福知山・土遺跡 墨書土器も出土

  京都府福知山市土の土遺跡を昨年10月から発掘調査してきた同市教委は3日、奈良時代末から平安時代にかけてのものと見られる墨書土器1点と、古墳時代後期のものとみられる青野形住居と呼ばれる竪穴住居1棟の跡を見つけた、と発表した。den
 今回、大量の土器に混じって見つかった墨書土器の破片は、須恵(すえ)器の杯(つき)(食器)の円形の底(直径約8センチ)の裏に「田次」という文字が書かれていた。近くからは、同じく須恵器の底をすずりとして使ったとみられる転用硯(てんようけん)も見つかった。府北部ではこれまでに、同時代の須恵器の杯の墨書土器は綾部市などで出土例があるが、市教委は「有力者が率いる集落だったか、村の中に公的な施設があった可能性がある。北部での出土は比較的珍しい」としている。
 

 また、一般的な竪穴住居と異なり、住居の角になる部分を掘り残して、かまどとして使う青野形住居の跡(縦約5・6メートル、横約4・4メートル)が1棟分、見つかった。市教委は「これまで綾部市青野町の青野遺跡を中心に、舞鶴市でも見つかっている青野形住居跡が福知山市でも初めて確認されたことで、由良川流域に住む人々が同じ文化を共有していたことがわかった」とする。
 市教委は、今回の調査個所の北側部分も、引き続き調査する。
 

現地説明会は6日午前11時から。 (京都新聞) - 8月3日22時40分更新



遺跡・文化財 | 【2005-08-04(Thu) 20:04:49】
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ポンペイ遺跡の遺体

 ポンペイ遺跡:ポンペイ(Pompeii)は、イタリアの南部、ナポリから東約50kmのところに位置しています。ヨーロッパ大陸唯一の活火山として、フニクラ・フニクラの民謡でも有名なベスビオ(ヴェスヴィオ)火山の南の裾野、海に面した高台の面積66ヘクタールの大きな港町でした。紀元前8世紀頃にイタリアの先住民族によって建設された町であり、ローマと同じぐらい古い都市です。交通の要所として各地の民族が干渉し、ギリシャ人の植民市として栄えましたが、ローマとの争いに敗れてその支配下に入りました。
 ポンペイは、古代ギリシャ・ローマ時代を通じて、ギリシャ・ローマ時代の主要都市の1つとして、いろいろな商売の店、レストラン、公衆風呂、野外劇場、神殿、裁判所などが整い、商業、農業、その他の産業で栄えてきました。ローマ領になってからは、その繁栄ぶりはめざましいものがありました。ローマ帝国領内の自治都市として、ローマの貴族たちの別荘地として発展しました。当時の人口は約2万人5千人。公共施設が次々と建てられ、建物の構えはローマにひけをとらないほどでした。ベスビオ山麓の豊かな葡萄からのワインや、料理で使わない魚の内臓や小魚を塩蔵して作る魚ソースなどの輸出で栄え、ローマの大発展の財政的基盤の一翼を担いました。その歴史、交易、産業など多くの記述がローマの文献に残っています。

  • 1997年 イタリア世界遺産(文化遺産)認定

    ポンペイ遺跡。ボンベイ遺跡ではありません。「ポ」です。紀元前6世紀に隆盛しローマの支配下に発展しましたが、西暦79年のベスビオ火山の噴火により一瞬にして埋没してしまった悲劇の古代都市です。
    1748年に発掘が始まるまで火山灰に埋まっていました。現在は当時の文明が驚くほど発達していたことを示す邸宅や公共浴場、大劇場などが当時のまま出土され、イタリアの世界遺産に認定されました。(現在も発掘調査は続けられています)

     奴隷の骨、過酷労働で変形 ポンペイ遺跡の遺体 京大教授が鑑定

     ベズビオ山の噴火で埋まった古代ローマ時代のイタリアの都市ポンペイの発掘調査で、3年前に見つかった奴隷とみられる遺体の骨を鑑定した結果、右足をひざまずいた片ひざ立ちの姿勢を常習としていたことが分かった。発掘調査した古代学研究所(京都市中京区)は「郊外のヴィラ(農場)で働かされた奴隷ではないか。単一の労働を強いられていた奴隷労働の過酷さを示す発見」と注目している。
     ■片ひざ立ち常習?
     同研究所は1993年から、ポンペイ遺跡北辺の「カプア門」推定地約1200平方メートルを調査したが、門は発見できなかった。2002-03年にさらに城壁の北約300平方メートルを調査、7メートル掘り下げたところで2体の遺体を確認、1体には両足に金属製の足かせがはめられていた。
     昨年9-10月、京都大理学研究科の片山一道教授(骨考古学)が現地で鑑定した結果、足かせのあった遺体の右足だけに、親指付け根の骨の関節面が広く上に伸びる変形が見つかった。同様の骨の変形は、古代シリア人や中米コスタリカの先住民に報告例があり、「粉をひく」などの労働か、休息の姿勢と関連があるという。
     同研究所では、遺体の場所が城壁の外で、ベズビオ山の方向と一致することや、軽石層の上の火砕流層で見つかったことから、郊外のヴィラで働く奴隷が城壁の近くで火砕流に巻き込まれたのではないかとみている。同研究所の坂井聰助教授(ポンペイ考古学)は「発掘現場の近くでは、冶金(やきん)工房を備えたヴィラも見つかっている。骨の変形は専門化した熟練労働の反映では」と分析する。同研究所副所長の浅香正同志社大名誉教授(古代ローマ史)は「ヴィラでは十数人の奴隷が拘束されて過酷な労働を強いられていた。文献でしか分からなかった奴隷労働の実像を示す貴重な考古資料」と話している。
     【ポンペイ】 西暦79年8月24日に始まったベズビオ山の噴火で埋まったナポリ近郊の古代都市。東西1・3キロ、南北0・8キロのだ円形で3・2キロの城壁に囲まれている。噴火で人口1万-2万人のうち、2000人以上が死んだとされ、遺跡には当時の人々の生活の様子がそのままの形で残っている。発掘は1748年から始まった。

    (京都新聞) - 8月1日10時0分更新


遺跡・文化財 | 【2005-08-01(Mon) 19:04:00】
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